「光の画家」と呼ばれるクロード・モネの絵画|作品と特徴

クロード・モネ - 散歩、日傘をさす女

クロード・モネ (Claude Monet) は、印象派を代表するフランスの画家です。

1840年にパリで生まれたモネは「光の画家」とも呼ばれ、季節や時間とともに変わりゆく光と色彩の変化を生涯にわたって追求しました。

今回は、クロード・モネが描いた絵画作品とその特徴をたっぷりご紹介します。

目次

クロード・モネ – 『睡蓮の池と日本の橋』(絵画)

クロード・モネ - 睡蓮の池と日本の橋

1883年にモネは1926年に86歳で亡くなるまで過ごすこととなる、パリから西へ80キロほどの距離にあるジヴェルニーに移り住みました。
10年後の1893年には隣接する土地を購入し、モネが好んだ日本の浮世絵で使われるモチーフである太鼓橋が架かった睡蓮を植えた池をつくります。

この睡蓮の池はモネにとって四半世紀にわたって主要な題材となり、亡くなるまでに250作品にものぼるこの池に関する絵画を残しました。
今回の絵が描かれた1899年だけでも、成熟した庭で様々に異なる光の条件で、17作品もの睡蓮の池を描いた作品を制作しています。

1899年に描かれた睡蓮の池が描かれた一連の作品では橋が中央に描かれているのに対し、翌年1900年に描かれた同モチーフの一連の作品は橋の右側が半分画面から切り取られたように描かれている別の構図がとられました。

モネは天候が許す限り自然が描かれたのそのままの様子を見て描くことに専念し、時には同じ日に8枚以上キャンバスを入れ替えながら、その瞬間の風景を描いたといいます。
刻々と変化する気象条件を捉えて同じモチーフを描くモネの制作方法は、印象派のスタイルの特徴となりました。

クロード・モネ – 『プールヴィルの断崖の上の散歩』(絵画)

クロード・モネ - プールヴィルの断崖の上の散歩

1882年2月、モネは当時の住まいポワシーからノルマンディー地方へ絵の制作に訪れます。
この旅行は、プライベートや仕事のプレッシャーから離れる意味合いもありました。
この時はモネの妻カミーユが病気で亡くなってから3年ほど経った頃で、子供たち2人と後の再婚相手となるアリス・オシュデとその子供たち6人と一緒に暮らしていました。

フランスの長引く不景気に影響を受けたり、翌月に控えた第7回印象派展に出品することに積極的になれずにいたりしていた時期です。
港町のディエップは都会的過ぎだと落胆したモネは、漁村のプールヴィルに4月中旬まで滞在します。
彼はこの漁村のまわりの風景に夢中になり、アリスと子供たちにこう手紙に書いて送っています。

「この田舎がどれほど美しくなっているか、あなたたちにその楽しい様子を隅々まですべてを見せることは、なんという喜びとなるだろう!」

6月にはアリスと子供たちが合流し、モネは彼らにその風景を見せることができました。
この作品で描かれている若い女性2人は、おそらくアリスの娘のマルトとブランシュと考えられます。
人物は構造と色の要素を通して、風景との統一性を損なわないように描かれました。
短く曲がった筆づかいで、そよ風によって草や女性のドレスやショールがなびき、海がうねっている様子が示されています。

クロード・モネ – 『ロンドンの国会議事堂』(絵画)

クロード・モネ - ロンドンの国会議事堂

モネは1899年から1901年の間にロンドンに3回にそれぞれ1か月から3か月ほど滞在し、絵を描きました。
モネは近代都市ロンドンの濃い霧を通した太陽の光の情景に魅せられます。
この時期にロンドンで制作されたウォータールー橋、チャリング・クロス橋と英国国会議事堂の3つをモチーフにした作品は、あわせて100点ほどになります。

ウォータールー橋、チャリング・クロス橋の連作は、滞在先の高級ホテルのサヴォイホテルのバルコニーから、国会議事堂を描いた作品は、テムズ川を見下ろす聖トーマス病院から描かれました。
一連の作品は、テムズ川の水面付近に発生する霧によって変化する光の反射の様子を捉えながら、異なる気象条件と時間帯の同じ場所の風景が描かれています。

このロンドンにおける制作で、モネはそれまで行ってきた戸外制作で作品を完成させるという手法をとっていません。
彼はフランスのジヴェル二ーのアトリエに作品を持ち帰り、数年かけて仕上げを行ったといいます。
この絵では幻想的な光に包まれた国会議事堂が、逆光を浴びて青く浮かび上がり、テムズ川にその姿を映している様子が見てとれます。

クロード・モネ – 『ウォータールー橋』(絵画)

クロード・モネ - ウォータールー橋

モネは1899年から1901年の間に3回に渡ってロンドンに絵画の制作に訪れています。
高級ホテルであるサヴォイホテルに滞在し、バルコニーからウォータールー橋やチャリング・クロス橋を描きました。
また国会議事堂については対岸の聖トーマス病院から見て制作に取り組みました。

これらの3つのモチーフで、彼はテムズ川の水面付近に発生する霧によって変化する光の反射の様子を、異なる気象条件のもと描くことに試みています。
ロンドンで描かれたこれらの作品は、戸外制作の後ジヴェル二ーのアトリエに持ち帰って数年かけて完成させました。
この時期ロンドンで描かれた作品は100点ほどで、ウォータールー橋を描いた作品で残されたのは41点と3つの連作モチーフの中で最多です。

モネが描いたウォータールー橋は1817年に開通した1代目で、現在の橋は建て替えられ1945年に開通した2代目となります。
今回の作品は、花崗岩で出来た堅固な作りのウォータールー橋における日没時の様子を、やわらかく淡い色彩で捉え表現している1枚です。

クロード・モネ – 『睡蓮』(絵画)

クロード・モネ - 睡蓮

モネは1883年にパリ郊外のジヴェル二ーに移り住んだのち、1926年に亡くなるまでの間ジヴェルニーの自宅に造った庭を題材に絵を描き続けました。
1893年には睡蓮が植えられた池をもつ「水の庭」を造園します。
池にはモネが好きだった日本の浮世絵のモチーフにみられる太鼓橋を渡し、周囲には柳や竹、藤など日本を思わる植物が植えられました。

モネにとってこの「水の庭」の睡蓮は、生涯熱心に追い求めるモチーフであり続け、亡くなるまでに200点以上もの同題材の作品を残しています。
今回の作品は1906年に描かれた睡蓮の作品で、「第二連作」とよばれる1903年から1908年の時期に制作された作品のうちの1点です。

この時期の「第二連作」描かれた睡蓮の絵は80点にもなります。
それ以前に睡蓮を描いた作品では、日本風の太鼓橋を含めた構成で描かれていましたが、「第二連作」では睡蓮が浮かぶ水面を拡大し、そこに映りこむ木々や空の様子が描かれているのが特徴です。

この連作の後、白内障に悩まされていたモネは1912年に手術を受け、1914年にはまた睡蓮の連作に取り掛かります。
モネは1890年代頃から睡蓮の大作で一つの部屋を埋め尽くすことを構想していて、その夢はパリにあるオランジュリー美術館の睡蓮の部屋となり残されました。

クロード・モネ – 『積みわら(雪と光の効果)』(絵画)

クロード・モネ - 積みわら(雪と光の効果)

『Haystacks (Effect of Snow and Sun)(積みわら(雪と光の効果))』は、モネのジヴェル二ーの自宅近くの畑の積みわらを題材に描いた連作のうちの一つです。

1890年の夏の終わりから翌年の春にかけて、彼は繰り返し自宅近くの畑に積まれた干し草の塊を題材に25点にものぼる作品を描きました。
この試みの最中に、モネは親交の深かった美術批評家のグスタフ・ジェフロワに次のように文章を書いています。

「私は一生懸命に取り組んでいるけれど、積みわらの連作に苦戦している。この時期日没は早く、私は追うことができない…続ければ続けるほど、私が求めているものをうまく表現するためには多くの作業が必要であることがわかる。」

積みわらの連作は、モネが描いた季節や時間の変化が及ぼす効果を同じモチーフを使って描き分けた最初の作品群の一つになります。
この連作は発表時から好評を博し、その経済的な成功によってモネはその後の「睡蓮」のモチーフとなる水の庭を造ることもできるようになりました。

クロード・モネ – 『積みわら(朝、雪の効果)』(絵画)

クロード・モネ - 積みわら(朝、雪の効果)

『Wheatstacks, Snow Effect, Morning(積みわら(朝、雪の効果))』は、モネのジヴェル二ーの自宅近くの畑の積みわらを題材にした連作のうちの一つです。
1890年の夏の終わりから翌年の春にかけて、彼は繰り返しジヴェルニーの自宅近くの畑に積まれた干し草の塊を題材に25点にものぼる作品を描きました。

この作品では雪が積もった畑で、朝方を思わせるあたたかな淡い光に積みわらが照らされている様子がみてとれます。
空の色に使われているピンク色は雪の描写にも反映するように使われていて、冬の太陽に照らされた積みわらの影や家々の屋根、雪面の青色と調和を作り出しています。

また、光のニュアンスを筆使いによって描き分けていてリズム感が感じられますね。
ほかの積みわらの連作に含まれる「雪の効果」や「冬」といった作品は、この作品と同じ構図で描かれていながらも異なる光の様子が捉えられています。

クロード・モネ – 『ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池』(絵画)

クロード・モネ - ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池

モネは1883年にパリ郊外のジヴェル二ーに移り住んだのち、1893年に睡蓮が植えられた池をもつ「水の庭」を造園しました。
この「水の庭」には彼が好んだ日本の浮世絵にみられる太鼓橋を渡したり、日本を思わせる柳や竹、藤といった植物が植えられます。

今回の作品『The Japanese Footbridge and the Water Lily Pool, Giverny(ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池)』は、1899年に描かれた「水の庭」の太鼓橋や大きな柳の木をメインに描かれた作品です。
池のいたるところに睡蓮の緑の葉がみられ、大きな睡蓮の花が水面から突き出している様子が見てとれます。

睡蓮の花はメインとして白色を使いながら、青、ピンク、赤、黄色といった他の色がわずかに加えられ描かれています。
池には植物や樹木の反射が見られて、池の水の透明度まで伝わってくるようです。
この作品は太鼓橋を中心モチーフとしたモネが睡蓮を描いたうちの第一連作のうちの一点にあたります。
モネは人生の最後の27年間をこの睡蓮の池を題材として描き続けました。

クロード・モネ – 『積みわら(日没、雪の効果)』(絵画)

クロード・モネ - 積みわら(日没、雪の効果)

『Stacks of Wheat (Sunset, Snow Effect)(積みわら(日没、雪の効果))』は、モネが描いた積みわらを題材とした連作のうちの1枚です。
1890年の夏の終わりから翌年の春にかけて、彼はパリ郊外のジヴェル二ーの自宅近くの畑に積み上げられた干し草の絵を繰り返し描きました。
この作品では、白く雪が描かれていることから季節が冬であることが見てとれます。

モネらしさが感じられる淡いピンク色や青色と対照的に、右上にはオレンジ色で描かれた夕焼け模様が描かれています。
モネは畑の積みわらの気象条件や時間の変化によって光の差し方が変わり、同じモチーフであっても異なる情緒が醸し出されることに気付いてから、様々なその時々の積みわらの風景を捉えて描きました。
キャンバスをアトリエから出したり戻したり順番を前後させながら、描きたい光の条件が揃うごとにそれぞれの作品を進めて完成させたといいます。

この25点にものぼる積みわらの連作はモネに経済的な成功をもたらし、その後に描くこととなる連作の「睡蓮」のモチーフとなる水の庭をジヴェルニーの自宅に造園することも叶いました。

クロード・モネ – 『積みわら(夏の終わり)』(絵画)

クロード・モネ - 積みわら(夏の終わり)

『Stacks of Wheat (End of Summer)(積みわら(夏の終わり))』は、モネが描いた畑に積まれた干し草の山を描いた連作のうちの一点です。
この作品では、背景に見える植物が緑色であることから夏であるのがわかりますが、積みわらから伸びる長い影によって秋が近いことが感じられます。

鮮やかな色が使われながらも、モネらしい淡い色彩による光の表現がみられる作品です。
1890年の夏の終わりから翌年の春にかけて、彼はパリ郊外のジヴェル二ーの自宅のそばの畑の積みわらをモチーフに、25点に及ぶ連作を制作しています。
この連作でモネは様々な時間帯、季節、天候のもとで光が醸し出す空気感をとらえながら、繰り返し積みわらを描きました。

彼は描くその瞬間の近い気候条件や光の加減にあわせて、アトリエに戻って未完成の積みわらのキャンバスを取りにいっては戻るなど、取り組む作品の順番を前後させながらその瞬間の景色を捉えるように制作に取り組んだといいます。

クロード・モネ – 『散歩、日傘をさす女』(絵画)

クロード・モネ - 散歩、日傘をさす女

この1875年に描かれた作品『Woman with a Parasol – Madame Monet and Her Son(散歩、日傘をさす女)』で、モネは、人物をまわりの風景と同じぐらい自由に描写しています。

モネの妻カミーユと息子ジャンの散歩姿を描いたこの作品は、家族の普段の生活を描写する風俗画を意図して制作されました。
下から人物を見上げるような構図をとり、カミーユとジャンの立ち位置が奥行きを感じさせます。
明るい日の光が妻カミーユの背後から差し込み、白く彼女の日傘や衣服を背中を白く照らす一方、地面に咲く黄色い花が彼女の体にも反映しています。

風や光の動きが感じられる、臨場感溢れる一瞬を捉えたこの作品は、1876年の第2回印象派展で入賞する結果を残しました。
モネはこの作品の後、1886年に近いシチュエーションを捉えた同じ日傘をさす女をモチーフにした作品を2点制作しています。

カミーユは1879年に32歳の若さで亡くなってしまい、モデルの人物は後にモネと再婚するアリス・オシュデの娘シュザンヌと言われています。
1作品目と近い条件と構図を使って描かれていますが、他2点はモデルの顔が描かれていないことが大きく異なる点です。

クロード・モネ – 『アンティーブ ルフォート』(絵画)

クロード・モネ - 『アンティーブ ルフォート』(絵画)

この作品『Antibes, Le Fort』で、モネはフランス南部の地中海岸の町アンティーブの要塞を描きました。
モネは1888年1月にパリ郊外の自宅を離れフランス南海岸に滞在し、この地域特有の類まれな光のもとで絵画の制作を行っています。
当時、印象派の作品の多くは夏の景色が描かれました。
しかし、この絵でモネが描いたのはアンティーブの冬の海岸の様子となっています。
広大な灰色がかった青い空と波打つ海は、モネの心の自由さや常に存在する孤独や孤立を反映しているようです。
モネ自身が外で絵を描きながら感じたはずの風が伝わるような臨場感が感じられます。
この絵を描いた1888年の冬について、モネは雨や風のために数日絵に取り掛かることができない日もあれば、問題なく一気に何日も仕事が出来た時もあったと述べていました。
上と下に広がる儚い空と海と、取り巻く自然による変化の中でどっしりと構えている石で建てられた要塞とのコントラストには、時間の流れを感じさせる風情が漂っています。
冬の太陽に照らされて煌めく南フランスの美しい景色を、非常に繊細な色合いで描いた作品です。

クロード・モネ – 『冬のジヴェルニーの入り口』(絵画)

クロード・モネ - 『冬のジヴェルニーの入り口』(絵画)

モネによって1885年に描かれた『L’entrée De Giverny En Hiver』は、雪と氷の冷ややかな輝きが感じられる冬の風景が描かれています。
踏みならされた道は、パリ郊外の町ジヴェル二ーに通じているものです。
1883年4月にモネは家族とジヴェル二ーに移り住んで以来、1926年に86歳で生涯を終えるまでその地に留まり創作活動を行いました。
この作品は、激しい吹雪によって景色が塗り替えられた際、氷と雪が解ける前に急いで描かれた9枚のうちの1枚です。
この頃の作品では、自然による変化を絵画に落とし込むことについてのモネの関心が示されています。
モネは多様な時間帯、光、場所、雪の質といった条件の下、多くの雪景色を描き、冬の予期せぬ自然現象に美しさを見出しました。
絶え間なく変わっていく光と冬景色を描いた今回のテーマの成功は、10年後に彼がノルウェーで描いた冬の風景画作品にも影響を与えています。

クロード・モネ – 『睡蓮の池』(絵画)

クロード・モネ - 『睡蓮の池』(絵画)

モネは1893年にパリの郊外の美しい村ジヴェルニーに移り住み、家を建て庭を作りました。
色とりどりの花を植えて「花の庭」を作ったのち、彼は目を楽しませてくれながらも絵画の題材となるような「水の庭」の構想を練るようになります。
やがて彼は自宅の敷地を拡げて、好きだった日本の浮世絵のモチーフにみられる太鼓橋を渡した睡蓮を植えた池を作り、池の周囲には柳や竹、藤など日本を感じる植物を植えました。
この睡蓮の池は後年のモネにとっての主要な題材となり、250作品にものぼるこの池に関する絵画を残しています。
この作品では太鼓橋の端が描かれずに切り取られており、橋と重なるような弧を描くダークカラーの水面が睡蓮の浮かぶ池に見てとれますね。
水面に垂直に描かれた木の反射と水平方向に漂う睡蓮のまとまりのコントラストが際立つように描かれています。
橋の上からのぞいたり下から見上げるように見たりと、様々な方向や視点から味わうことが出来る作品です。

クロード・モネ – 『ヴァーノンの教会』(絵画)

クロード・モネ - 『ヴァーノンの教会』(絵画)

1894年の春、モネは繰り返しセーヌの光の反射をモチーフにした作品の制作に取り組みました。
ポール・ヴィレ川の飾り気がないけれど崇高な景観から始めて、べルノンの川岸を描くために下流に移動するなど、モネはその年の大部分の創作活動の多くでジヴェル二ーの自宅周辺のフランスの田園地帯を描いています。
この作品では、ゴシック様式の教会が早朝の光に包まれる様子が描かれています。
構図は水辺で水平にきちんと分けられており、上下に雄大な教会が霧の中に浮かび上がっています。
モネが最初に教会を描いたのは1870年代で、その頃に描いた数点の絵画は、長年にわたってモネにとってインスピレーションの源であり続けました。
1883年にはべルノンの大聖堂を描いた3枚の絵画を製作し、異なる方向から日の光に照らされる教会を描いています。
今回の作品制作時、モネは小さなボートを使って川の真ん中に漕ぎ出し、建築の細部ではなく霧と光の一時的な効果を捉えることに焦点を当てて、7つの作品を描きました。
この絵では、深い霧と明るい陽射しの調和を捉えていることが見てとれます。

クロード・モネ – 『小麦畑』(絵画)

クロード・モネ - 『小麦畑』(絵画)

『Champ De Blé(小麦畑)』は1881年に描かれたモネによる作品です。
セーヌ川の下流にあるヴェトゥイユに1878年に住まいを移してから、その周囲2キロ以内の風景を描いて3年ほど経った頃に描かれた作品になります。
このフランスの田舎の風景は、モネが情熱を注いでいた日本の芸術やほかの印象派の作品を彷彿とさせる点があります。
帯のように描かれた赤みのある金色の小麦畑の前方には青緑色の草地が広がり、後方には背の高い暗い色彩の糸杉が描かれています。
水平な帯となるように色が重ねられたこの風景は、葛飾北斎や歌川広重による画期的な遠近法を使った浮世絵作品と比較できるものになっています。
また身近な自然を描くことは、浮世絵や他の印象派の絵画作品においてみられるモチーフです。
モネがセーヌ川周辺の牧草地を描いたのは、ノルマンディー海岸における創作活動に取り組み始めた後の夏になり、この創作は広大な崖や海の様子を描くことと対照的で違いがあるものでした。

クロード・モネ – 『ヴェトゥイユへの道』(絵画)

クロード・モネ - 『ヴェトゥイユへの道』(絵画)

1878年4月に、当時38歳だったモネは7年間過ごしたアルジャントゥイユからヴェトゥイユに住まいを移しました。
この土地で過ごした4年間は、モネにとって妻カミーユを亡くし、破産したパトロンのエルネスト・オシュデ一家と同居することになるなど、とても苦しい時期でありました。
1880年の春から夏にかけて、モネはヴェトゥイユとその周辺の地域で30作品近くの絵画を制作しています。
その中の4作品はモネの自宅があった道路沿いを題材としており、今回の作品はその中で68 cm x 90 cmになる最も大きなキャンバスを使って描かれました。
こちらの『LA ROUTE DE VETHEUIL(ヴェトゥイユへの道)』に描かれている道路の急カーブは、1880年代初頭にモネの作品に登場し始めた強さとシャープさが感じられる構図の典型的なパターンが使われています。
また後年の1890年代にモネが描いたノルマンディー海岸の景色やポプラ並木の連作へ繋がりも感じられる構図です。
この時期モネはオーソドックスな印象派のスタイルに縛られることに不満を持ち、1880年代初頭は様々な筆遣い、構図形式、モチーフを試していました。
この絵では主に青と緑に色の範囲を限定し、素早くゆらめくようなリズミカルな筆のタッチで抽象的特徴を強調しています。

クロード・モネ – 『積みわら(霧の太陽)』(絵画)

クロード・モネ - 『積みわら(霧の太陽)』(絵画)

モネによる『Grainstack-Sun in the Mist(積みわら(霧の太陽))』は、積みわらを題材とした連作のうちの1つです。
1890年の夏の終わりから翌年の春にかけて、彼は繰り返しジヴェルニーの自宅近くの畑に積まれた干し草の塊をモチーフに25点にものぼる作品を描きました。
モネは気象条件や季節の移り変わりによる光の変化により、積みわらが異なる雰囲気を醸し出すことに気付き、その時々の条件によって変わる様子を捉えて描きました。
この作品では、秋の夜明け特有の太陽が霧の中に姿をあらわす瞬間を描いていることが見てとれます。
積みわらは光の輪をつくる日の出の太陽を背に受けている様子が、モネらしい多色の淡い色彩で幻想的に描かれている作品です。
積みわらの連作はモネに経済的な成功をもたらしました。
印象派の中心的存在であったフランス人画家カミーユ・ピサロも「『積みわら』は幸福感を漂わせている」と述べるなど、積みわらの連作は発表当時から好評を博したといいます。

クロード・モネ – 『ヴェトゥイユへの道』(絵画)

クロード・モネ - 『ヴェトゥイユへの道』(絵画)

1870年代の多くをセーヌ川沿いにある町アルジャントゥイユで過ごしたモネは、1878年にさらに西のヴェトゥイユに移り住み、その地で3年ほど過ごしました。
この時期はモネにとって、1879年9月には妻カミーユが亡くなり、パトロンであったエルネスト・オシュデが破産したため彼の妻と子供たちの一家と一緒に暮らすことになるなど、精神的にも経済的にも困難な時期でありました。
この『The Road to Vétheuil(ヴェトゥイユへの道)』は、1879年に描かれた作品でモネが住んでいた道路沿いを描いた作品になります。
同時期にヴェトゥイユからロシュ・ギュイヨンの方向への道を5作品描いています。
これらの関連する作品のうち3つは、雪の積もった冬の道路を描いていますが、この絵で描かれているのは秋の風景です。
中央の消失点に向かって道路が描かれて消える古典的な風景画の構図をとり、カラフルな明るい色使いで描かれている作品となっています。

クロード・モネ – 『サンタ・ドレスの海岸』(絵画)

クロード・モネ - 『サンタ・ドレスの海岸』(絵画)

1867年の夏、モネは叔母と一緒にノルマンディーの港町ル・アーブルの郊外にあるサンタドレスに滞在しました。
サンタ=ドレスのビーチを描いた時、モネはまだ27歳でサロンでの成功を模索している若い芸術家の一人でした。
この絵の制作から10年ほど経つ1876年に開催された第二回印象派展まで絵を公開しなかった理由は、1860年代にサロン落選がしばしば続いた経験からだと推測されています。
モネの叔母が家を所有していたサンタドレスは、当時まさに伝統的な漁村からル・アーブルのモダンな郊外の町へと変わりゆく頃でした。
モネは1867年に2枚このビーチを題材に描いていて、一つはシカゴ美術館に、もう一つはニューヨークのメトロポリタン美術館にて所蔵されています。
それらがペアになるものとして描かれたという証拠はありませんが、どちらの絵もそれぞれサンタドレスの現代的なブルジョアな世界と伝統的な労働者による漁村という階級差を示しているのが特徴的です。
このシカゴ美術館所蔵の絵では、寒々しい曇り空のもと漁師の船が描かれていますが、同時にブルジョア階級の人々がのんびりとヨットレースを眺めている様子も描かれていて、そのコントラストに魅力が感じられます。

クロード・モネ – 『ラ・ロシュ=ギュイヨンの道』(絵画)

クロード・モネ - 『ラ・ロシュ=ギュイヨンの道』(絵画)

1878年の冬、モネはアルジャントゥイユからセーヌ川をさらに下った村ヴェトゥイユに引っ越しました。
モネがヴェトゥイユで過ごした3年あまりの間には、妻カミーユを病気で亡くし、パトロンであったエルネスト・オシュデが破産したため彼の家族と同居し彼らを養うことになるなど、彼の人生におけるとても困難な時期であったことが想像できます。
1879年から1880年にかけての冬は異例の寒さで、モネは完全に凍ったセーヌ川を描いた作品を制作しています。
「霧氷」「流氷」などの寒々とした景色を描いた連作を制作した後、1880年代のの初めに再びこの作品に見られるような明るい色使いの作品の制作に目を向けます。
1880年の春から夏にかけて、ヴェトゥイユとその周辺の地域でモネは30作品近くの絵画を制作しました。
着飾った人々を描く華やかな風景を描くことはありませんでしたが、筆のタッチはより自由で大胆になり、色彩も個性を帯びてきます。
今回の絵で描かれているのはヴェトゥイユから少し川を下ったところにある、小さな村ロシュ・ギュイヨンです。
同じ場所から描かれた別の作品では、同じ道を逆方向のヴェトゥイユに向かって描いています。

クロード・モネ – 『ポピー畑』(絵画)

クロード・モネ - 『ポピー畑』(絵画)

1881年に描かれたこちらの絵でポピーの花は、明るい色の絵の具を筆でたたきつけることで描かれています。
モネは彼のこの手法について、「屋外で絵を描くとき、目の前にある対象物を忘れるように試みること。例えばここには青い四角、ここにはピンク色の三角、ここには黄色の縞があるといったようにそこにあるものを正確に捉えることのみ考えるようにする。」と記していました。
モネはこの絵のほかに、ポピーが描かれた作品を複数制作しています。
1873年にアルジャントゥイユで制作を行っていた頃には、たくさんの赤色のポピーの花が咲いている草原に子どもを連れた母親が描かれている作品を残しました。
この絵の人物のモデルはモネの妻カミーユと長男のジャンであるといわれています。
また1885年には当時彼が住んでいた家の近く、ジヴェル二ー郊外のくぼ地に咲くポピーの絵を制作するなど、年月を経て再びポピー畑を主題にした絵画を描きました。
モネが描いたフランスをはじめとするヨーロッパの国々では、現在も5月中旬頃になると小麦畑に雑草として色鮮やかにポピーが咲き誇る様子がみられます。

クロード・モネ – 『アルジャントゥイユのひなげし』(絵画)

クロード・モネ - 『アルジャントゥイユのひなげし』(絵画)

1870年に普仏戦争が勃発し兵役を避けるためロンドンに渡っていたモネは、1871年にフランスに戻り、セーヌ川に面した町アルジャントゥイユにアトリエを構えました。
この作品はその頃の1873年に描かれた作品です。
アルジャントゥイユでは画商ポール・デュラン=リュエルに支えられながら、モネは自宅周辺にの明るさのある風景を見つけて屋外制作の可能性を探ることができました。
このモネによるポピー畑を描いた作品は、夏の日の草原を散歩する活気に満ちた雰囲気が醸し出される世界で最も有名な絵画の1つです。
輪郭を薄めて絵の具の塊として、ポピーの花を散らして描くことによりカラフルなリズムが構築されています。
風景の中に描かれる前方の母と子と、後方の母と子は、対角線を描く構図です。
前方の日傘をした若い女性と子供は、モネの妻であるカミーユと息子のジャンだと考えられています。
フランスをはじめとするヨーロッパの国々では、現在も5月中旬頃になると小麦畑に雑草として赤いポピーが咲く風景が身近にあり、モネはポピー畑を主題にした作品を後年にも描いています。

クロード・モネ – 『くぼ地のヒナゲシ畑、ジヴェルニー近郊』(絵画)

クロード・モネ - 『くぼ地のヒナゲシ畑、ジヴェルニー近郊』(絵画)

モネが暮らしたノルマンディー地方にあるジヴェルニー周辺の地域には、北方になだらかな丘があり南方にはポピー(ヒナゲシ)と小麦の畑がありました。
モネはこの村に暮らし始めた数年間、これらの畑を歩き回ったといいます。
ジヴェルニーに移った後すぐにモネは自宅の庭に植物を植え始めたとはいえ、その初期段階の庭の風景を描くことには関心を持ちませんでした。
彼の興味は瑞々しい自然な色を見せてくれる近くのポピー畑に向けられたといいます。
モネや他の印象派の画家たちは、芸術はその瞬間の時間と場所を現代的なスタイルで表現すべきであると信じていました。
1860年代と1870年代に主に戸外制作を行った印象派の画家たちは、強い光の中で物体が鮮明さを失い互いに混ざり合うように見えることを観察しました。
この絵の日に当たった風景では、輪郭が明確に描かれていません。
筆跡の大きさ、形、方向によって質感や形状が示されています。
補完的な色合いとなる赤と緑を並べることで、絵画に活気のある強さが感じられる作品です。

クロード・モネ – 『花咲く梅の木』(絵画)

クロード・モネ - 『花咲く梅の木』(絵画)

1878年の夏、モネは家族とヴェトゥイユに引っ越します。
この地で過ごした3年半あまりの日々は、モネは妻を病気で亡くし、友人でパトロンであったエルネスト・オシュデが破産し彼の家族と同居することになるなど、精神的にも経済的にもとても辛い時期でありました。
ヴェトゥイユに移る前、モネは都会のモダンな日常を描く画家として名を馳せていました。
しかし、このセーヌ川沿いの町で彼が興味を持ったのは平和な田園風景で、光と色の微妙な変化を捉えることに焦点を合わせます。
モネは彼の住居を取り巻く果樹園や、川岸からの町の風景などの身近な風景を描きました。
この『花咲くプラムの木の絵』も、自宅近くの風景を描いたものです。
木のむこうには、ヴェトゥイユの一部と丘が見えます。
この絵からは、当時の彼の苦難や絶望的な家族の状況が感じられず、すべてが活き活きと描かれています。
色が混ざりながら光の加減が見事に表現されている作品です。
筆のストロークによって、丘の傾斜面にはそよ風が吹いているようなうねりが感じられますね。
この絵は1880年の個展にて公開されて、コレクターや美術批評家がモネの風景画に対する稀有な才能と熟練した技術を認めるきっかけとなりました。

クロード・モネ – 『ヴェトゥイユの花壇』(絵画)

クロード・モネ - 『ヴェトゥイユの花壇』(絵画)

1878年にモネはパリの西にあるセーヌ川沿いのヴェトゥイユの町に移り住みました。
この地でモネはそれまでのモダンな都会の生活から脱出し、川岸で庭づくりをするなどの機会を得ます。
この絵で渦を巻き飛沫をあげるようにオレンジ色で描かれているのは、その庭の金蓮花です。
モネが友人からヴェトゥイユのアトリエに訪れていいか聞かれた際にこのように返答したとの逸話が残っています。
「私のアトリエ!1つもそのようなものは持っていないけれど、どうやって部屋に籠ることが出来るのか理解できない。室内で絵を描くことは出来るかもしれないけれど、色を付けることは出来ない。」
モネは色彩豊かなヴェトゥイユの田園風景に魅せられ、この土地で多くの名作を制作しました。
しかし、モネにとってヴェトゥイユで過ごした時期は、1979年には妻のカミーユを亡くし、友人でありパトロンであったエルンスト・オシュデが破産して彼の家族と同居し養うことになるなど精神的にも経済的にも困難な時期であったといいます。
この絵が制作された1881年は、画商ポール・デュラン=リュエルが定期的にモネの絵を購入する契約を交わし経済的にも回復することができた頃です。

クロード・モネ – 『睡蓮の池に架かる橋』(絵画)

クロード・モネ - 『睡蓮の池に架かる橋』(絵画)

1883年モネは43歳の時にジヴェルニーに移り住んでから10年後、自宅に隣接する土地に絵画の題材となるような池のある「水の庭」を作る構想を練り始めます。
モネは外来種を持ち込むことを警戒する地元の人々を説得し、エプト川の水を庭に迂回させて池を拡張する承認を得て造園に取り掛かることができました。
好きだった日本の浮世絵のモチーフにみられる太鼓橋を渡した睡蓮を植えた池を作り、池の周囲には柳や竹、藤など日本を感じる植物が植えられました。
この睡蓮の池は、1926年に86歳で亡くなるまで四半世紀にわたり、モネにとって熱心に探究するモチーフとなります。
モネは深く浮世絵などの日本文化における自然の中心的な役割を称賛していて、日本の主題となる自然を彼の印象派の画家としての表現で理解し、描写することを確立していきました。
今回の作品が描かれたのは、1920年頃でモネにとって晩年にあたります。
同じ頃多くの睡蓮の橋に渡る「日本の橋」が描かれましたが、どれも荒いタッチと色彩で描かれた抽象的で前衛的な作風となっています。
患っていた白内障の影響がどれほど絵に影響を及ぼしたかは定かではありません。
しかし1923年に手術を受けたモネは病気に苦しんでいた術前の多くの作品を破棄したので、この頃の残された作品はモネ自身が認めた作品なのだと考えられます。

クロード・モネ – 『睡蓮』(絵画)

クロード・モネ - 『睡蓮』(絵画)

モネは1893年にフランス北部のジヴェルニーにある自宅に池のある庭を造り始めます。
この「水の庭」の池には睡蓮が植えられ、日本の浮世絵に見られる太鼓橋が架けられました。
モネは自宅のこの池や睡蓮をモチーフにした作品を生涯に渡って描き続け、その数は200点以上にのぼります。
今回の作品の実際の寸法は、縦200センチに横426.1 cmとかなり大きなサイズです。

睡蓮が浮かぶ水面が一面に描かれ、紫、青、緑の絶妙な色合いの幻想的な美しさに、温かく包み込まれるような感覚を覚える作品となっています。
アメリカ合衆国ミズーリ州にあるセントルイス美術館に所蔵されており、もともとは3つのキャンバスで構成された作品の中央に置かれたものでした。
他の2枚の作品は、ネルソン・アトキンズ美術館とクリーブランド美術館にて展示されています。
この絵が描かれたのは1916–26年頃と推測されており、モネが最晩年に取り組んだ作品のうちの1枚です。

クロード・モネ – 『柳』(絵画)

クロード・モネ - 『柳』(絵画)

モネは、1878年にパリの北西にあるセーヌ川に面した町ヴェトゥイユに移り住みます。
この地に過ごした3年あまりは彼にとって、病気の妻カミーユを1979年9月亡くし、友人でパトロンであったエルネスト・オシュデが破産したために彼の家族と同居するなど、精神的にも経済的にも大変困難な時期でありました。
妻カミーユの死から数か月後、モネは絵画制作を再開します。
1880年代初頭はフランスの田舎の風景の記録を目的に、モネは自然や海を描いた風景画を描きました。
今回の柳の木を描いた作品も、それらの作品に含まれます。
また、同年には、その後モネと再婚することとなるエルネスト・オシュデの妻アリス・オシュデだと考えられる女性が、柳の木の下に座る様子を描いた作品も制作しています。
この時期の作品で使われた手法は、天候条件や時間、季節によって変わる光を捉えて描く、その後の1890年代の「積みわら」や「セーヌ川の朝」といった同じモチーフを描く連作の制作へと繋がり進化していきました。

クロード・モネ – 『柳の下に座る女』(絵画)

クロード・モネ - 『柳の下に座る女』(絵画)

この絵は1880年モネがパリの北西にあるセーヌ川湖畔にある町ヴェトゥイユに住んでいた頃の作品です。
柳の木の下に座る女性は、モネの友人でパトロンであったエルネスト・オシュデの妻でその後モネと再婚することとなるアリス・オシュデだといわれています。
1978年にこの地に移り住んだモネは、1981年の冬まで3年あまりをこの地で過ごしました。
この時期は、妻のアリスを病気で亡くしたり友人でパトロンであったエルンスト・オシュデが破産して彼の家族と同居することになるなど、精神的にも経済的にも大変彼にとって辛い時期であったこと考えられます。
妻カミーユが1979年9月に亡くなってから数か月後、モネはこの地での絵画制作を再開します。
モダンな都会の風景とは異なる、ヴェトゥイユ近郊の田園風景にモネは魅せられ、この地に住んでいた期間に150点ほどの作品を残しました。
それらの作品で天候条件や時間、季節によって変わる光を捉えて描いた手法は、その後の1890年代の「積みわら」や「セーヌ川の朝」といった連作の制作へと発展していきます。

クロード・モネ – 『ヴェトゥイユのセーヌ河岸』(絵画)

クロード・モネ - 『ヴェトゥイユのセーヌ河岸』(絵画)

1878年にモネはパリ北西のセーヌ川沿いの町ヴェトゥイユに移り住みます。
この絵が描かれた1880年代初頭、ヴェトゥイユ近郊の自然や、ノルマンディー地方の海など、彼はフランスの田舎の風景を記録する制作を行いました。
この作品は1880年、セーヌ川のほとりを描いたものです。
ヴェトゥイユ近郊のセーヌ川は、村々や林の間を縫うように蛇行して流れていて、モネはこの時期様々なセーヌ川の畔を描いた作品を残しています。
この頃行った手法は、異なる天候や時間の条件下の光の影響を受けた同じモチーフを繰り返し描くその後の連作制作へと発展していきました。
この絵の筆づかいは描写する場所によって様々に変化し、コントラストがついている様子が見てとれます。
例えば、川の緩やかに波打つ表面は跳躍するように水平に、空は渦を巻くような筆運びです。
絵の前面には、草花が溢れるばかりのストロークで描かれています。
何層にも重なった絵の具の層で装飾されながらも、モネのインスピレーションの源であった自然そのものの風景から遠ざかることはないように表現されています。

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