『ひまわり』以外にいくつ知ってる?ゴッホの作品を楽しむ旅

ゴッホ - ファンゴッホの寝室

絵画『ひまわり』で有名なオランダの画家のフィンセント・ファン・ゴッホ。
ゴッホ展などの展覧会はいつも反響を呼びますね。
ゴッホは日本の浮世絵に影響されたといったエピソードもあり、日本人としても親近感がわきやすく、また、数々の個性的な作品も人気を生む理由ではないでしょうか。

今回は、『ひまわり』の影に隠れた名作たちを取り上げながら、ゴッホの作品をたっぷりご紹介します。

ゴッホ – 『Roses(花瓶のバラ)』

ゴッホ - バラ(薔薇)

Roses(花瓶のバラ)』は、花瓶から溢れんばかりの薔薇がグリーンとホワイトの濃淡で描かれた、いつまでも眺めていたくなるような優雅で穏やかな空気感が感じられる作品です。
ゴッホの優しいまなざしを伝えてくれているようなこの絵画は、1890年5月にゴッホが入院していた南仏プロヴヴァンスの町サン=レミにある精神病院を離れる直前に描かれました。
ゴッホはその2か月後、1890年7月に37歳で生涯を終えることとなります。
この時期ゴッホが描いたこの作品を含むアイリスと薔薇を題材とした4枚の静止画作品は、ゴッホがサン=レミに移る前、1888年のアルル滞在時に制作したひまわりを題材とした作品シリーズにひけをとらない価値をもつ作品群であると考えられています。
厚く塗られた薔薇の花びらは、アルルで描かれたひまわりを彷彿とさせる力強いタッチで描かれており、生き生きとしたゴッホの主張が絵に込められているように感じられますね。
アルル時代のような色彩の強烈さは表に出ていませんが、ゴッホの絶妙な色彩選びと筆遣い表現が見て取れるとても美しい作品です。
現在は、アメリカのニューヨークにあるメトロポリタン美術館に所蔵されています。

ゴッホ – 『Oleanders(夾竹桃と本のある静物)』

ゴッホ - 夾竹桃と本のある静物

Oleanders(夾竹桃と本のある静物)』が描かれたのは1888年8月のことで、南仏アルルに移ったゴッホが芸術家が集って切磋琢磨して制作を行う「黄色い家」を築くことを夢に描いていた頃です。
浮世絵からの影響だと考えられる輪郭線を使って強調する手法で、ふっくらと丸みを帯びた花と鋭い葉のコントラストを際立たせています。
鮮やかな色彩を使って色のコントラストをつけて描かれた夾竹桃からは、生命力やしなやかな美しさが感じられますね。
ゴッホにとって夾竹桃の花は、尽きることなく咲いて力強く新芽を伸ばすことから、生きる喜びを感じさせるものでした。
「黄色い家」の入り口にもゴッホは夾竹桃の花を飾るつもりでいたと伝えられているほど、彼は夾竹桃に強い思いを抱いていたといいます。
また、花瓶の傍らに置かれている本は、ゴッホが愛読していたエミール・ゾラの「生きる歓び」です。
ゴッホはアルルに移り住む前の1985年に、「開かれた聖書のある静物」というタイトルで、聖書の傍らにこの本を描いた作品をすでに描いています。
同じ愛読書を描きながらも、そちらの作品では黒色を多く使った暗い色彩で、明るく喜びに満ちた本作品の雰囲気とは対をなす作品となっています。
ゴッホにとって「生きる歓び」を感じさせる、大事な存在であった夾竹桃と愛読書を描いたこの作品からは、ゴッホがこの時期に抱いていた夢や希望が感じられます。

ゴッホ – 『Garden at Arles (花咲く庭と小道)』

ゴッホ - 花咲く庭と小道

Garden at Arles (花咲く庭と小道)』は、1888年7月にゴッホにより描かれた作品です。
この頃ゴッホは弟のテオへの手紙に、「青い空の下では、オレンジや赤、黄色の斑点模様となる花々が驚くべき輝きを放ち、澄んだ空気の中で北方よりも幸せで愛が感じられるような、何かが感じられる」と綴っていました。
同じ手紙の中でゴッホは、アルル郊外の庭の同じモチーフで2つの絵画を制作したと述べています。
この『Garden at Arles(花咲く庭と小道)』はそのうちの1つです。
同じ年の春にゴッホは、彼が1882年から1883年にオランダのハーグにいた時代の恩師アントン・モーヴが亡くなった知らせを受けて以来、その時代の恩義について回想を繰り返していたといいます。
ハーグ派のリーダーであったモーヴは、ゴッホに可能な限り自然に関する作品をつくることを勧めてくれた人物でした。
アルルでゴッホは鮮やかな色合いをもつプロヴァンスの風景の中で過ごしていたことがテオへの手紙から伺い知れます。
自然風景を題材としながらも、この作品では写実的なハーグ派の感性とは根本的に異なる、新印象派の代表的な画家のポール・シニャックやジョルジュ・スーラによる点描法が試されており、自由なデザインでゴッホの絵が進化している様子が見て取れる作品です。

ゴッホ – 『Enclosed Field with Ploughman(農夫のいる囲い込み地)』

ゴッホ - 農夫のいる囲い込み地

この『Enclosed Field with Ploughman(農夫のいる囲い込み地)』が描かれた1889年10月から遡ること5か月前、ゴッホはサン=レミの精神病院に入院しました。
この風景画は、ゴッホが一室を画室として使う許可をとり、病室の鉄格子からの眺めを描いた作品の1つです。
この絵で描かれている場面はゴッホの弟テオへ宛てた同年8月30日付の手紙で説明していた、「百姓らが耕している黄色い切り株畑があり、黄色い切り株が耕作された地面に縞模様を作っている。背景には丘がある。」という病室からの眺めに関する描写と重なります。
しかしながら、遠くに描かれた風車はゴッホの想像上のものだとされ、それは手紙が描かれた数か月後にゴッホが記憶の中の風景をもとにこの絵を制作したことを示しています。
サン=レミでは、ゴッホは病状が改善しては発作を繰り返していましたが、同年9月頃にしっかりと意識を取り戻したゴッホは、この時期ミレーの模写や彼が画家として初期に行っていた農夫や労働者をテーマにした作品を再び描き始めます。
この年ゴッホは、上端が区切られた風景、農場の建物、遠くの丘など同じ基本的な要素をもつ13作品にのぼる麦畑の作品を残しました。

ゴッホ – 『Green Wheat Field with Cypress(糸杉のある緑の麦畑)』

ゴッホ - 糸杉のある緑の麦畑

Green Wheat Field with Cypress(糸杉のある緑の麦畑)』は、1889年にゴッホが南仏プロヴァンスにある小さな町サン=レミの精神病院に入院していた際に描かれました。
この時代にゴッホが描いたいくらかの糸杉が描かれた麦畑の風景画は、病院を離れて外出が許された際に制作したものです。
この年6月中旬に、ゴッホは妹ヴィレミーナに絵が描きあがったことを手紙の中で次のように伝えています。
「キイチゴと緑の茂みに囲まれた黄色い麦畑がある。畑の終わりには、ダークカラーの背の高い糸杉が立っている。遠くには紫がかった丘とコントラストをつくる小さなピンク色の家が建っている。背面には、ワスレナグサの色のように青色とピンク色の縞模様をもつ空が、すでに焦げたパンの耳のように重たい色味となった箇所とコントラストを作りながら広がっている。」
ゴッホは糸杉や麦畑を描くのが好きで、何年にも渡って描いており、彼にとってこの題材は生と死のサイクルを象徴するものであり、創作意欲を掻き立てられ慰めとなるようになるものだったといいます。

ゴッホ – 『Wheat Field with Cypresses(糸杉のある麦畑)』

ゴッホ - 糸杉のある緑の麦畑

Wheat Field with Cypresses(糸杉のある麦畑)』は、1889年にゴッホが南仏のサン=レミにある精神病院にいた頃に描かれた作品です。
彼は入院中も短い散歩の許可を得て、病院の外で風景画を描きました。
ゴッホは糸杉の樹木に自分の感情がいくらか反映されていることを感じて以来、この木に対して特別な感情を持っていたといいます。
サン=レミにいたゴッホが亡くなる前年の1989年には、糸杉を題材とした作品を繰り返し描きました。
この絵では、収穫間近の広大な小麦畑が広がり、右側には2本の暗い色調の糸杉が、その左側には明るめの色をした小さな糸杉が描かれています。
1989年7月2日付けの弟テオへの手紙の中で、ゴッホはこの絵について「糸杉と少しばかりの小麦、ケシの花、青い空があり、多彩なスコットランドの格子縞のようで、アドルフ・モンティセリの絵のように絵具を厚塗りした」と説明していました。
夏の日差しが降り注ぐ明るい風景が描かれたこの作品をゴッホは自身の夏の絵の最高作であると考えていたそうです。
背景の雲や麦畑をなでていく風が感じられるようなこの渦を巻くような表現は、絵の具を厚く重ねて塗ることにより強調されており、生き生きとした躍動感が感じられる作品となっています。

ゴッホ – 『Cypresses(糸杉)』

ゴッホ - 糸杉

ゴッホの『Cypresses(糸杉)』は、1889年6月後半に描かれた作品です。
サン=レミの精神病院に入院したばかりの頃に描かれた作品となります。
この絵の色使いは明るく、力強さがありながらも、この時期のほかの『星月夜』といった彼の作品と比べて、彼の問題を抱えた心を表すような緊張感は反映されていません。
リズムが感じられる渦を巻いた筆のタッチが、木や葉、空に繰り返されながら、自由な雰囲気を作り出しています。
糸杉のことをゴッホは、「古代エジプトのオベリスクのように、線とプロポーションに関して美しい」と感じ、画家としてモチーフと選ぶことに挑みました。
「糸杉は、太陽が降り注ぐ風景の中の暗い一画ながら、最も興味深い暗い調子の一つで、最も自分の想像通り正確に描写するのが難しい」とゴッホは述べています。
また、この作品を制作した頃に書いた弟テオへの手紙で、これまで西洋絵画で描かれてこなかった糸杉を、前年にアルルで描いたひまわりと同じように扱って描きたいと、糸杉をモチーフとすることへの強い抱負を語っていました。
また、同年11月の手紙の中でも彼は糸杉について、「典型的な国内で見られる木でありながらとても美しい母国の柳と同様に、フランスのオリーブや糸杉にも、もっと注目されるべき重要さがある」と書くなど、彼は糸杉に対して強い思いを持っていました。

ゴッホ – 『Farmhouse in Provence(プロヴァンスの農家)』

ゴッホ - プロヴァンスの農家

ゴッホによる作品『Farmhouse in Provence(プロヴァンスの農家)』は、南フランスアルル滞在時の1888年に描かれた作品です。
アルルは、それまでゴッホが過ごしてきたオランダやパリとは違って暑く乾燥しており、風景で見られる色彩も鮮やかだったといいます。
また、降り注ぐ太陽の光によってあらゆる形が単純化されて見えて、称賛していた日本の浮世絵における陰影をつけない平坦な彩色パターンと重ね合わせて、ゴッホはアルルのことを「南方の日本」と呼びました。
この作品では、太陽光の効果により輪郭が薄められた構成物が、コントラストを作る補色を使って描かれています。
アルルに滞在した15か月ほどの間に彼は200枚以上もの油絵と100枚ほどのスケッチを制作し、200通以上もの手紙を書いたといわれ、驚くべきほど生産的な日々を送りました。
この時期描いた7つの作品からなる小麦畑のシリーズについて、ゴッホは「黄色や黄金色の風景を、焼けつくような太陽のもとで黙々と収穫作業に励む収穫者のように、すばやく描いた」と述べています。

ゴッホ – 『Irises(アイリス)』

ゴッホ - アイリス

Irises(アイリス)』は、1890年5月にゴッホがサン=レミの精神病院を退院し、友人である精神科医ポール・ガシュのいるオーヴェールに出発する直前に描かれた作品で、彼の亡くなる前年の作品になります。
ゴッホは花のアイリスをテーマに複数の絵を描いていて、サン=レミに来てすぐにも病院の庭に咲くアイリスを描いた別の作品を制作しています。
しかしながら、この作品を含む退院間近の時期に描かれたアイリスと薔薇をモチーフに各2枚ずつ描いた花を題材とした作品は、彼がこのサン=レミにおける入院期間に唯一描いた静物画でした。
この絵では、ピンク色の背景にバイオレット色の花々を配置することで、調和のとれた柔らかさが表現されているように見て取れます。
また、キャンバスいっぱいに花と葉が広がるように描かれ、動きが感じられる構図となっています。
この絵画は、1907年にゴッホの母親が亡くなるまで彼女によって保管されていましたが、現在はニューヨークのメトロポリタン美術館にて所蔵されています。

ゴッホ – 『The Bedroom(ファンゴッホの寝室)』

ゴッホ - ファンゴッホの寝室

ゴッホは3つの異なるバージョンの『The Bedroom(ファンゴッホの寝室)』を描いています。
この絵は1889年に制作された第2のバージョンにあたります。
第1のバージョンは、1888年の10月にアルルにて画家ポール・ゴーギャンと共同生活を始めるにあたり家を飾るために描かれました。
しかし、ゴーギャンとの生活は価値観の違いなどからうまくいかず、ゴッホは自身の左耳を切り落とす事件を起こしてアルルを去りサン=レミの精神病院にて入院生活を送ることとなります。
ゴッホはこの寝室の絵を高く評価していて、近くの川が氾濫して湿気により色が劣化してしまったこともあり、この地で異なる第2と第3のバージョンを制作しました。
第2のバージョンは、他2つと比べて荒々しいタッチが見て取れます。
色使いも緑がかった床面など、当時のゴッホの心理状態が表れているかのように、不安定な印象です。
第3のバージョンは、2枚目を描いた3週間後に描いたとされ、母と妹に送るために描いたこともあるのか、よりやわらかい印象の作品に仕上がっています。
同じ構図ながら、壁にかけられた肖像画が第1のバージョンでは友人らが描かれたものであるのに対し、第2のバージョンでは自画像と女性像に変えているなど、違いがあります。
ゴッホの制作時における状況や、心境を思い描きながらこの絵を見てみるのも大変興味深い作品となっています。

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